深センで起業した日本人【②深センで始めたビジネスと挫折】

深セン経済情報2周年特集:『深圳に感謝し、13年を振り返る。』

白井りょう(株式会社ホワイトホール 代表取締役)

2006年に中国の深セン市で起業、貿易とコンサルティングからスタートし、数々の日中スタートアップを立ち上げる。深センのビジネス情報を現地から配信する「深セン経済情報」を運営。視察ツアーや日中間のアクセラレーターなどを行う。
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深セン
2006年 深セン市羅湖区のアパートから撮影

エピソード② 深センで始めたビジネスと挫折

2005年の春、初めて訪れた深センで衝撃を受け、中国で起業することを決めました。
そして間も無く勤めていた証券会社に辞表を出してしまったのです。

当時、ライブドアショック以前の日本の株式市場では、ベンチャー企業のIPOが活況で、新規公開株をお得意様に配って周っていました。カカクコムやオールアバウトなどWEBサービスの会社が上場し、公開価格の数倍になるのは当たり前という相場でした。

インターネット関連の会社が上場し始めた頃で、25歳の私は「ホームページでサービスを作れば上場できる」と漠然と思うようになっていましたし、新規公開株を配ったお客さんが大喜びするのを見て、「自分も会社を作ってIPOを目指したい」という気持ちを持っていました。

証券会社では営業社員のノルマが厳しく、お客さんがIPO株で利益を出すと、その資金で投資信託を買ってもらうためのネゴシエーションをするという決まりがありました。ちょうどそのタイミングで、投資信託の中国株ファンドを売らなければならない時期になり、私もそれを随分と売っていたものです。
その中国株ファンドはしばらくすると暴騰し、お客さんは更に喜ぶという循環。
「中国は将来アメリカを抜くから、中国で起業して上場を目指そう」と、ビジネスを全く知らないまま起業してしまったのです。

 

25歳の私は、証券会社でそれなりに良い成績を残し有頂天になっていました。
立派な企業の社長さんたちにちやほやされ、接待もされ、おだてられ、「自分は実力があるから起業すれば投資もしてもらえるだろう」と思っていました。しかし、これは全くの幻想だったことに後々気付くことになります。

 

深センでの生活

起業してすぐに深センに住み始めました。
さっそく1,700元(当時レートで2.5万円程)で18平米の狭い部屋を借りました。

深センの不動産屋
当時の不動産屋の雰囲気
深センの不動産屋
まだまだ安かった深センの家賃

 

拠点にしたのは深セン市の羅湖区。
そこは深センで一番最初に開発されたエリアで、改革開放の父と呼ばれる鄧小平が約40年前に深センを経済特区にした際に中心となっていた場所です。

そこに、三島中心というビルがあり、そこは中国茶を売る問屋さんが軒を連ねる「中国茶専門マーケット」でした。
そして現地でビジネスパートナーを見つけて中国茶の貿易をスタートすることになります。

チラシ
スーパーの張り紙は超アナログだった

 

なぜ中国茶を始めたのか、理由はありませんでした。

証券会社にいた私は全くビジネスのことをわかっていないので、ビジネスの種を見つけるのに精一杯で、何かの流れでそこに行き着いたのでしょう。既に記憶がありません。

三島中心で、中国茶を極めたおばあさんが店を出しており、そこに通って中国茶について色々と教えてもらい、仲良くなって仕入れをさせてもらうことになりました。
中国茶には、紅茶、緑茶、白茶、青茶、岩茶、プーアル茶など、多くの種類があり、更に銘柄や年代によって価格差も大きく異なります。

その歴史ある中国茶の世界に深く入り込むと、とても面白くて魅力的です。同時に中国の歴史やライフスタイルなども、おばあさんから教えてもらいました。

深センの夜

大量に仕入れた茶葉を小分けにしてパッケージ、オリジナルブランドを作り、デザインから袋詰めまで全て自分で行い「美遊茶(ビュウティー)」というロゴを作り商標登録もしました。

作った商品は全て日本に輸送し、当時流行り始めたネット通販での販売をするため、サイトを制作しEC用のカートを設置して、それなりの販売サイトを構築しました。

更に、地方ラジオの番組枠を買い取り、レディオビュウティーという番組名で、健康に関する話題をお送りしながらリスナーをサイトに誘導するという計画を立て、コンテンツ作りから収録まで全て自分で制作、挿入歌は人気アーティストの曲を使うとジャスラックにお金を取られるので、自分で曲を作って歌い、それを流していました。

寝る間も惜しんでパッケージに茶葉を詰め、そこにラベルを貼り、サイトへのアップ作業、そして曲作りとラジオの収録など、起業の辛さを味わっていました。

商品の準備ができると、証券マン時代にお世話になったお客さんに連絡を取って、出資やラジオ番組のスポンサーの話をして周りました。ところが、今までちやほやしてくれていた社長さんたちは、全く興味を持ってくれません。明らかに迷惑そうにされ、私の話は早めに切り上げられてしまいます。
社長さんたちは、私の話ではなく新規公開株にしか興味がなかったということにやっと気が付きました。

苦労して作った商品をネットにアップし、1日がかりで作ったラジオの台本をオンエアし、注文を待つのですが全く反応がありません。
そんな中、中国からの農作物に規制をかける「農薬規制」が始まったのです。中国の農作物の多くが日本で制限されている農薬を使っており、中国茶もまた輸入することができなくなりました。商品はひとつも売れず、農薬規制で仕入れもできなくなり、完全に目の前が暗闇になりました。

 

会社を辞めて中国で起業することを反対していた母親も、パッケージ詰めなどで苦労した際には日本側で手伝ってくれていました。そして、サラリーマン時代に給料からコツコツ貯めた300万円を資本金に当てていたのですが、それも尽きようとしていました。

 

大企業の看板を背負って仕事をしていた自分が、個人として社会に出たときの無力さを痛感し、ビジネスを必死で立ち上げるもマーケットに一蹴され、無一文手前まで転がり落ちました。

その頃からノイローゼのような症状が現れ、夜寝ようとすると資金が底をつく恐怖で寝付けず、朝は破産した夢で目が覚め、途端に何をしたら良いのかわからず焦燥感に駆られる、という最悪の日々が約3ヶ月続いたのです。

 

 

【エピソード③奇跡のV字復活】

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