深センで起業した日本人【③奇跡の復活】

深セン経済情報2周年特集:『深圳に感謝し、13年を振り返る。』

白井りょう(株式会社ホワイトホール 代表取締役)

2006年に中国の深セン市で起業、貿易とコンサルティングからスタートし、数々の日中スタートアップを立ち上げる。深センのビジネス情報を現地から配信する「深セン経済情報」を運営。視察ツアーや日中間のアクセラレーターなどを行う。
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【エピソード③奇跡の復活】

深センで始めた中国茶ビジネスは、起業したばかりの私を嘲笑うかのように崩れ去り、仕入した材料や製作費、プロモーションのために始めたラジオ番組など、全てが水の泡になりました。

そして約3ヶ月の間、ノイローゼ状態になり、事業もないまま迷走状態を続けていました。

 

今思えば、これは貴重な失敗体験でした。
ある日、深センから離れて中国の田舎を体験したいと思い、湖南省を訪れました。

深セン市のある広東省の北側に隣接しており、毛沢東の出身地でもありますが、沿岸部の目覚しい発展と比べるとかなりの田舎感があります。

実は、深セン市の人口の20%ほどが湖南省からの出稼ぎ労働者です。彼らが爆速都市の発展を支えてきたとも言えるでしょう。

 

そんな田舎町の安宿に泊まり、改めて中国ビジネスについて考え直そうとしていました。

当時、深センではモノやサービスがそれなりに充実していたのですが、田舎に来ると何かと不便なものです。

タクシーがつかまらないので、バイクタクシーにスーツケースを抱えたまま乗ることになり、冬で気温が低かったこともあって、運転手にしがみつく手が凍りついて転がり落ちそうになったりと、インフラレベルで未成熟さを感じました。

市場などがある街中に入ると、見るからに戦後のアメ横を再現したような風景が広がります。
田舎では冷蔵庫や洗濯機などが入っていない世帯も多く、自宅で畑を耕しながら豚や鶏を育て、卵を産ませたり肉を市場に持っていき買ってもらうなどして生計を立てている世帯が多いのです。

中国の格差は日本とは比較できないほど強烈でした。

安宿(一泊1000円ほど)にチェックインしてシャワーで温まろうとしたところ、給湯器が壊れたのか冷水しか出てきませんでした。もちろん文句を言っても無駄だったので、我慢するしかありません。

部屋には暖房などありませんので、暖を取ろうと夕飯を食べに出かけました。

湖南料理といえば唐辛子を使った料理が多く、興味本位で色々と頼んで食べてみたところ、想像を絶する辛さで味もよくわからなくなるほど。満足に食事することができませんでした。

 

そして間も無く人生で経験したことのないような腹痛に襲われ、薬も持ち合わせていなかったので、薬局を探すも見つからず、売店でヤクルトを買い求めても取り扱いがなく(深センなど都市部では売っている)、ホテルに戻って布団の中で寒さと痛さに悶絶しながら耐えていました。

 

あまりにも悲惨な状態に涙が出てきました。

証券マンを辞め、上場を志して起業したものの瞬く間に失敗し、折れかかった心を鼓舞し未踏の地にヒントを求め訪れるも洗礼を受けるかのごとくボロボロに。。。

しばらく寒さと痛みに耐えていましたが、『もう諦めて日本に戻って就職活動をしよう』 と思った瞬間に体がスーッと楽になっていきました。

きっと無意識で過剰なストレスを感じていたんだと思います。

体が楽になってくると同時に、なぜか悔しい気持ちが込み上げて「このまま終わってたまるか」という気持ちになり、「今から新しいサービスを作ってやろう」と、ノートパソコンを開きました。

 

日本人が中国で挑戦できるようなサービスを片っ端から並べ、問い合わせが来たら対応できるか考える。

そんな荒削りなサービスサイト「EZ-China(イージーチャイナ)」を徹夜で作り上げました。

 

深センでの会社設立、商標の取得、銀行口座開設代行、貿易のサポート、などなど。

そして当時、中国でもECが流行り始めていたので、タオバオでの出品代行や仕入代行などもメニューに入れました。取り憑かれたように無我夢中で作り上げ、気がついたら朝になっていました。

サイトはオフラインで構築したため(ホテルにWiFiが無い)ネットカフェに移動し、オンライン環境を確保し、ついにアップロード完了。

サービスを一晩で作って公開した満足感に浸りながら深センに戻り、疲れを癒そうとサウナに入りました。

中国のサウナではマッサージを受けるとそのまま泊まれるようになっているので、サウナのベッドで寝ていたところ、めったに鳴らない中国携帯が鳴りました。しかも日本の番号からかかってきています。

 

これは、もしかしたら、初注文ではないか!?
電話に出ると、やはり新しいサービスへの問い合わせでした。

それは、中国の代表的なECプラットフォーム「タオバオ」で仕入れをしたいというニーズでした。

狙いは的中しましたが、サービスのフィーを1件の仕入れ代行につき4,900円〜と、適当な値段を書いてしまったため、その時は値段が合わず利用してもらえませんでした。

急いで事務所(当時はマンションの一室)に戻り、創業メンバーと値決めをし、仕入額の10%をサービスフィーに設定したところ、多くのユーザーを獲得することができました。

いわゆる個人貿易代行業として、当時はパイオニア的存在だったので、ベンチマークする競合がなく、手探りで値段やルールを決めていたのです。

実はこのビジネスは3つのキャッシュポイントがありました。仕入れ手数料、為替スプレッド、値切り交渉できたときの差額、この3つで利益率は流通総額の25%ほど確保できていました。

そうして毎日のように中国人スタッフがフル稼働で、大量の貨物を中国から日本に送っていました。

毎日順調に売り上げが伸びるとともに人手が足りなくなり、作業の合間に中国人スタッフの面接を繰り返していました。

できそうなサービスを片っ端から並べていましたが、インターネットで受注できるものとそうでないものがあります。

やはりインターネットでのサービスはBtoCが中心になるということがわかり、この個人輸入代行業に特化したサイトを作ることになります。それが「タオバオ代行王」で、後に同業他社に売却することになります。

 

特化したことでSEO効果もあり、常に検索トップを維持していました。

年間3,000件ほどの受注をするほどに膨れ上がり売上も急増、事業が飛躍的に伸びていく「スケール」というものを肌で感じることができました。

 

潜在ニーズに対してサービスを提供し、需要をキャッチできたらそこに集中、実際の業務の中でエラーを修正していく、まさに絵に描いたような「リーンスタートアップ」だったのです。

今あるニーズを吸収するには、今すぐにサービスを作らなければいけない。法律はもちろん遵守するが、それをくまなく調べ上げたりしている時間はない。3ヶ月遅れていたら他の業者がマーケットを取ってしまっていたと思います。

これは、当時カオス状態の深センにいたからこそできたことで、今の深センは正に「リーンスタートアップ」そのものなのです。

この10年間は、インターネットを駆使してアメリカのサービスを中国向けにローカライズすることで、いくらでもチャンスがありました。

人口も多いし、外部のサービスをシャットアウトして中国ベンチャーを支援する政府の後ろ盾もあり、生き馬の目を抜く勢いで起業家が生まれました。

とにかく早いスピードでサービスを作り、消費者を実験台にしてトライアンドエラーを繰り返し、吸収や淘汰の中で多産多死の状況をつくってきました。その中で勝ち抜いた者がチャイナドリームを手にしてきたのです。

 

サービスがヒットすると、ネット上での口コミで更に利用者が増え、メディアで自社のサービスが紹介されたり、徐々にブランドとなっていくことで会社としても安定していきました。

中国へ乗り出して苦労の連続の中、悲願の成功を手にしました。

しかし、事業がうまくいくほどに私は傲慢になっていきました。

当時29歳の私は、銀行から借りれるだけの融資を受け、未経験ゾーンに投資をしていくようになりました。

 

 

次回をお楽しみに【エピソード④再び襲いかかる危機】

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