深センで起業した日本人【①挑戦を決めた日】
|深セン経済情報2周年特集:『深圳に感謝し、13年を振り返る。』
白井りょう(株式会社ホワイトホール 代表取締役)
2006年に中国の深セン市で起業、貿易とコンサルティングからスタートし、数々の日中スタートアップを立ち上げる。深センのビジネス情報を現地から配信する「深セン経済情報」を運営。視察ツアーや日中間のアクセラレーターなどを行う。
【エピソード①挑戦を決めた日】
〜深圳との出会い〜
私が初めて深圳に来たのは2005年の春でした。
当時、私は日系証券会社の営業マンをしており、日本特有の上下関係と社内に漂う閉塞感で明らかにストレスを感じながら仕事をしていました。
金融業ですので、自発的に世界の金融街などを見て回るようになり、ニューヨークのウォール街や香港のセントラルなど、個人的にビジネス旅行を楽しんでいました。
海外に行くと多少リスクがあっても現地のローカルを見て回りたいという性分で、ニューヨークでもスラム地区に入り込み黒人二人組に絡まれカツアゲをされるという経験もしました。
香港に行ったときも1時間ほどで入れる深センには興味津々で、迷わず突入してしまいました。
初めて深圳に入ったその日、夜の22時頃だったかと思います。イミグレーションを超えて街に出た途端、数人の物乞いが私を取り囲みました。
ボロボロの中華服を着て頭蓋骨が陥没しているおじさんや、汚れで真っ黒になった赤いタートルネックを着たおばさん、バラの花を買ってくれと必死で足にしがみつく子供、手足がなく転がりながら近寄ってくる青年など、、、今ではほとんど見ることのできない殺伐とした光景が当たり前のように存在していました。
当時、証券会社での仕事は、株や投資信託を企業の社長などに買ってもらうために飛び込み営業をしたり、紹介をもらって人脈を作ったりと、大変でしたがそれなりにやりがいを感じていました。
ただ、やはりどこの会社にも「常識」を重んじる上司がいるもので、私の上司もそのタイプでした。
お茶の出し方や会議室の使い方など、細かな作法が決まっていて、何かにつけて「これは常識だぞ!」と言われたものです。
若かった私は、その場では素直に謝りはしたものの、紛れもなく違和感を感じていました。
言葉遣いや立ち振る舞いなど、全てにおいて「常識」を意識しながら人と接しなければいけない。本当に大事なもの、やるべきことが見えなくなり、何のために仕事をしているのかがわからなくなっていました。
私は新潟県長岡市の出身で、日照時間が少なく冬は深い雪に覆われる地方都市です。よく排他的とか閉塞的と言われます。大雪が降るため冬はとても大変で、毎朝1時間かけて雪かきをすることも珍しくないため、昔から忍耐強く努力家が多い地域でもあります。
歴史上の有名人といえば、幕末のラストサムライ「河井継之助」や、第二次大戦の軍師「山本五十六」を輩出しています。
私も忍耐強く育ってきたとは思っていましたが、証券会社で違和感の中仕事をしているうち、しだいに体調がわるくなってきました。
そこに追い打ちをかけたのが、当時ホリエモンが率いるライブドアが起こした粉飾決算問題「ライブドアショック」でした。
私の担当するお客様が信用取引で大量のライブドア株を保有していましたが、上場廃止を目前としたライブドア株は毎日のようにストップ安が続いていました。
「今日中に3,000万円の追証(追加資金)を入れてもらえないとお客さんは破産ですよ!」
若造の私をかわいがってくれていたお客さんに対して、数日間に渡りこのような電話をかけるしかない状況。
心は痛み、体には蕁麻疹が出ていました。髪の毛も縮れてくるほどのストレスで、このままでは体が持たないと思いました。
毎日スーツとネクタイを身にまとい、理論武装とドライな心で仕事と向き合っていた私が、そのようなタイミングで深センを訪れたのは今となっては正解だったのでしょう。
何日か深圳に滞在していました。
繁華街の裏にある小路に入って行くと、サトウキビをかじりながら歩いてくる若い女性が、片方の鼻の穴を塞ぎ、ゴミ箱に向かって鼻水を飛ばしていました。交差点の街路樹の下で子供に大便をさせる母親も見ました。
赤ちゃんを抱いた女性が、街頭のゴミ箱の前に座り込み、食べられそうなものを見つけて手で食べていました。
その横を時々高級車が爆音を立てて走り去って行きます。
山積みの問題を抱えてはいるが、ここは巨大なマーケットの基盤があり、ここから激変を遂げていくという雰囲気を漂わせていました。
生ゴミが腐ったような匂いの中、25歳の私は衝撃を受けながら歩いていました。
そして、会社で言われ続けてきた「常識」を完全に疑い始めました。
このカオス感が私にエネルギーを与え、深圳という街に強烈に魅了されました。
「カオスを生み出すこの地でチャレンジをしてみたい」と思った時、すでに会社を辞めることを決意していました。
【エピソード②深センで始めたビジネスと挫折】
日本 × 深セン(中国)オープンイノベーションサービス『BAKU-SOKU』