改革開放40年、深センは鄧小平が予言した通りの街になった
|先日、北京にて改革開放40周年記念式典が開催され多くの人がこの式典を見ていただろう。
しかし、多くの人が40年という記念と自分は遠い存在であると感じていたと思う。しかし実際にはそうではなく、特に深センに居る人にとっては遠くはないだろう。
深センは改革開放の先駆者的な所であり、深センは改革開放の恩恵を大きく受けてきた場所であると言える。改革開放は中国の歴史的な変革であり、それを実現させた大きな出来事である。
この改革開放の中で、必ず出てくる人物が居る。
深セン人にとっては忘れることのできない名前、それは鄧小平(トウショウヘイ)。
“発展こそ正しい道だ『科学技術は第一の生産力である』 『白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫がよい猫だ』
これらは鄧小平が残した言葉であり、現在でも語り継がれている。
深セン経済特区この名称は彼が与えたものである。改革開放前の深センは貧しい小さな漁村であることは知られている。
鄧小平はこの南の沿岸部一体を全て変える必要があると考えていた。そして1980年深セン経済特区が設立された。
鄧小平は“この地域をなんて呼ぶのか?
工業区、貿易区、来料加工区、貿易提携区、どれも的確な言い方ではない。ここは特区である。
陝西、甘粛、寧夏は最初は特区であったはずだ。中央はお金がない、政策は出すことが出来る。自分たちで道を切り開かなければならない。
彼は深センに「経済特区」という名前を与えて深センに改革開放の精神を与えた。
改革開放として最初の“試験場となり、深セン特区は荒野を開拓する所から始まった。
土を掘り起こす掘削機など重機の音が鳴り響いていた。
1982年、『時間はお金である、効率は生命である』
蛇口招商局が打ち出したこのスローガンは華南地区に広がり、様々な論争が巻き起こった。
人々は特区政策が正しいものなのか疑い始めたのである。
1984年に鄧小平は初めてこの南のエリアを周り、このスローガンを見て「良いことだ、論争はじきに収まる」と語っていた。
彼は視察を終えたあと、「深センの発展と経験は、我々の経済特区の政策が正しかったことを証明している」と語った。
1992年、鄧小平は再度この地域を訪れた。ここで著名な『南方談話』を残している。
彼は「両手で掴み取れば、両手は硬くなる。社会主義を貫かなければ、改革開放も、経済発展も人民の生活改善も出来ない。死への道を進むだけだ」と語っている。
1992年1月20日、鄧小平が国貿ビルを視察
これらは、深セン人に対して大きな勇気を与え、深セン人に改革開放が正しいことであると理解させた。
彼はまた、「改革開放は大胆にやらなければならない、足の細い女性のようではダメだ。大胆に試して行くべきである。」とも語っている。
この言葉により、深セン人はやっと安心して大胆に一歩を進めることが出来るようになった。
現在の深センは、彼ののぞみ通りになった。
鄧小平は一生の中でたった2回しか深センに来ていない、合計で8日間だけである。
しかし彼はこの漁村を「60年代は木の小屋に住み、80年代は団地、21世紀はおしゃれなマンションに住む」という夢を実現させた。
これはまさに彼が残した『白い猫でも黒い猫でもネズミをとる猫がよい猫だ』ということである。深センはその良い猫である。
深センという場所が、3万人の貧しい漁村から一千万人を超える大都市になり、GDPが1979年の1.79億元から2017年の22兆元と全国第三位になり、世界経済発展史上の奇跡を創り出すと一体誰が想像できただろうか。
30数年の間に巨大な変化を遂げ、深セン特区の探索と実践は、中国における改革開放の大きな成果となった。
1997年春、この老人は我々の元から去っていった。
多くの時間が経ち、鄧小平も年老いた。
多くの時間が経ち、深センが成功し、中国は大きくなった。
多くの時間が経ち、深センは鄧小平の望み通りになった。
あなたはこの深センを見ましたか?
【ライター:佐々木英之】
ホワイトホール深セン事務所にて10年間の中国ビジネス経験。
日本に出張すると数日で深センに帰りたくなるという「深セン通」である。